マネージャー/スタッフ密着取材の全曲解説!!

「美しく豊穣な昭和の夢」と「脆く儚い現代(いま)的な想い」、アンヴィヴァレントな二つの感性の間でたゆたう言葉とメロディー、それこそがシンガー・ソング・ライター=村上紗由里の唯一無比の音楽的個性であり、魅力でもあります。

今回、彼女の全国デビュー盤となるこのミニ・アルバムの制作にあたって、スタッフが真っ先に考えたのは以下のようなコンセプトでした。


ふと立ち寄った街のCD/レコード・ショップで見かけた一枚のCD。ショップ店員さんの手書きポップ(女性の筆致と見られる。ちょこちょこっと添えられたイラストも可愛い)のコメント、 「1976年(【脚注参照】に一枚だけアルバムをリリース、でもその後すぐに結婚して家庭に入ってしまい、惜しまれつつ引退してしまったシンガー・ソング・ライター村上紗由里の、幻の名盤が遂に初CD化されました!シンプルなメロディーと歌詞から届けられる穏やかな感動は、最近のJ−POP作品では味わえなかったピュアな体験です!」 を見かける。

早速購入したそのアルバムは、店員さんのコメントのとおり、透明感溢れる心地よい歌声が全編で響き渡る、フォーク・ソングがニュー・ミュージックというジャンルにとり込まれる前の素朴で品の良い作品で、すぐにお気に入りの一枚になりました。。。。
懐かしい友人、両親、はたまた息子や娘に思わず薦めたくなってしまう、愛おしい作品。自分的フェイヴァリット作品TOP10の、決して1位にはならないけれど、10枚の中には入れておきたい作品。歌っている、曲を書いている村上紗由里というミュージシャン/人物のことが、気になって気になってしょうがなくなってしまう作品。。。。


そんなコンセプトを作品に昇華させるために、村上とスタッフの制作ミーティングが始まりました。彼女の楽曲の中で鼓動する感性を静かにノックしつつ、ゆっくりゆっくり、この作品のイメージは創り上げられて行きました。


【脚注】 1976年のヒット曲と言えば。。。。 『木綿のハンカチーフ』(太田裕美)、『俺たちの旅』(中村雅俊)、『わかってください』(因幡晃)、『あの日にかえりたい』(荒井由美)、『なごり雪』(イルカ)、『無縁坂』(グレープ)、『いちご白書よもう一度』(バンバン)、『横須賀ストーリー』(山口百恵)、『春一番』(キャンディーズ)、洋楽曲では『ビューティフル・サンデー』(ダニエル・ブーン)、『ラブ・イズ・ブラインド』(ジャニス・イアン)などがありました。


1.落陽

さて、初のミニ・アルバムの制作に当たって、このアルバムを象徴するリーディング曲を何にして、アルバム全体の輪郭を創って行こうかと考えていた時、レーベルのスタッフから村上に、撮影中の映画の挿入歌を書き下ろして歌えないかという打診がありました。2016年5月28日から公開される映画『燐寸少女 マッチショウジョ』(http://matchgirl-movie.com/)の中の、最も感動的なエピソードの背景で流れる楽曲を創るという重責を担えないかという嬉しいお話です。映画の原作の漫画を読みつつ(「大泣きして読みました!」とは村上の弁)、映画監督さん、音楽監督さんとの打ち合わせを挟みつつ、いよいよ彼女は楽曲の制作に臨みました。そしてタイトなスケジュールの中、4曲の異なる個性の楽曲のデモが誕生しました。

落陽

(1)とてもシンプルで淡々としたメロディーの中で、村上の〈泣き〉の感性が光る新曲。(2)別の歌詞を制作中であったノスタルジックな童謡風のメロの作品に新たに映画に則した歌詞を作ってみた作品。(3)明るくポップで、村上にしては珍しいJ−POP的な新曲。そして、(4)もともとストックされており、村上とスタッフが出逢った頃からあった曲。印象的でありながらも、何故か完成型にする作業を成されて来なかった楽曲とのこと。マネージャー的には、「今回のこのお話を頂いた時に、楽曲プレゼンの保険(イヤですね、スタッフの発想ってって苦笑しながら)になるぞ!って真っ先に思い浮かんだ曲」との事。そしてこの曲の元々のベーシックな歌詞も今回の映画にほぼストライクな内容のものでもありました。


マネージャー的には上記の冒頭(1)に挙げた新曲がツボだったそうです。村上の〈静か局面〉の王道のメロ。歌詞の着地にいつも手こずる彼女が、制作完了出口として使う「ぶっきらぼうな言い切りっぷり」が逆に柔らかに、想定される映画のシーンに寄り添えるような佳曲。しかしてレーベルのディレクター、そして映画監督達からのリクエストは、ストックされていた上記(4)をもう少し熟成させて行って欲しいというものでした。


楽曲の第一印象って、とても大切ですね。やっぱりこの曲(すなわち、その後の『落陽』)が皆さんの感性にヒットしたっていうことに、結局、村上始めスタッフ一同、首肯しきりでした。スタッフ達にとっても、3年近くも前に聴いていた部屋録のデモのメロがず〜っと頭の中に残っていたくらいですから、楽曲の印象は強かったんでしょうね。


この楽曲には出来た当時から仮タイトルが二つあって。一つはそのまま『落陽』、もう一つは『キッチン』でした。Bメロの歌詞は、当初「どこかの家で夕飯のにおいがする。お母さんのカレーが食べたい」♪っていう、まさに村上ワールドど真ん中の昭和ペーソス系で、最初の映画へのプレゼンの時はこの歌詞を残させていただいたとのこと。レーベルのディレクターも、何か雰囲気あって面白いからプレゼンはこのままで行きましょう!って乗り気だったそうです。まぁ、結果、映画制作スタッフ一同は「????」だったようで(苦笑)。「どういう流れでこの歌詞ですか??」って。そりゃそうですよねぇ。。。。


最終的に、映画の挿入歌にも決定して、このミニ・アルバムを象徴する、現在の村上をも象徴する感動的な作品が誕生しました。不思議ないくつもの偶然が導いてくれたこの楽曲の完成型なんですね。


実は、楽曲冒頭のブロックの歌詞は当初から全く変わっていませんでした。村上が書いていた作品が時を超えて出逢った映画作品に不思議にシンクロしたっていう、運命的なエピソードだともとれますね。


余談ではありますが、村上作品におけるラヴ・ソングは、そんなにキャラクターや経験値の多様性を極めておらずっていうのが自分の印象です。同じカップル、相手との感情が異曲を超えて成長したり、戸惑っていたりっていうのを多く見かけます。あぁ、あの曲の二人の話がこの曲でこんな風に復活してるんだなって思い当たることが多いのです。この『落陽』の歌詞も同様。今年(2016年)3月にリリースされたライブ会場限定販売盤のCD『無情』に収録されている、村上ライブの定番/人気曲『ほたる』という曲があるのですが、この『ほたる』で運命の彼に出会って、その出逢いに戸惑っていた女のコがその後、その彼と手探りの恋愛を始め、付き合い始めたんだなっていう風景が『落陽』では描かれていたりする。本人はどこまでそこに自覚的か分らないけれども、水面下で脈打つ恋愛初期におけるドキドキ感は、その2曲の間、そこで描かれている二人の間で共通するモノを感じさせられてしまうのです。


そんな〈解題〉の楽しみも、今後の村上作品で多く出てくるんだろうなって思うと、楽しみも増します。


偉大すぎる吉田拓郎の代表曲と同名異曲である『落陽』というタイトルにニヤリと反応するかどうかっていうのも、村上のこれからの音楽的な歩みにご興味を持って頂けるかどうかのリトマス紙にもなるのかもしれないなぁ、と。。。。


2.水風船

ここ何年か、村上のライブを観て頂いたり、手売りのCDを聴いて頂いたりしていたファンの方々にとっては、この楽曲は旧タイトル『チョコばなな』として知られており、彼女のレパートリーの中でも人気曲だったものです。その改題/歌詞改訂の作品がこれです。

水風船

村上は出逢った当初から、身体の中で自然にこうした王道昭和フォークのメロ感/コード感が鳴っているミュージシャンでした。今年(2016年)3月にライブ会場限定盤としてリリースした『無情』の表題曲にも同様の趣があります。この感覚は学習しようと思っても簡単には体得できない、良い意味での〈欠乏感〉だと思っています。本来トップで響くべきノートに対して、絶妙に美しいバランスで「足りない」んです。いわゆるコード感としての「マイナー」の本質です。村上はこの感覚においては天才的なミュージシャンだと思います。


今回のミニ・アルバムから歌詞のディレクションに岡本定義(COIL)が関わっているのに注目したい。結果、彼は元々の歌詞(『チョコばなな』)にあった表現、言葉選び、時系列バランス、感情バランス、そんな楽曲にとっての水面下の重要な要素を見事に整理してくれたと思います。歌っている内容は全く変わっていないのに、一つの大きなストーリー性の訴求という面で完璧なプロとしての手腕を発揮している。ミュージシャンズ・ミュージシャンとして天才の名を欲しいままにしている岡本の村上作品への参加は、今後の村上の音楽活動においては究極の奇策/秘策であったと言えるでしょう。


岡本とスタッフがよく話をするテーマに「〈村上紗由里〉という一つの映画作品をより感動的なものに成長させる手助けをして欲しい!」というのがあるそうです。この作品『水風船』(タイトル変更の最終決定は実はレーベルのデイレクターでした)はまさにその最初の一歩であったのでしょう。


彼女のイメージから広がって行く世界観を、広がって行くままに自由に泳がせて、そこで広げられる色彩感、温度感、匂い、そんなものを楽曲に取り戻して作品として完成させる。言うならば、村上本人もビックリするような作品の世界観として、本人に返して上げると言うスタッフ・ワークが結実した一作でしょう。女優(笑)=村上紗由里を最も意識して、楽曲のアレンジからムードまでの全てを意図的な世界観で創成した一曲!とマネージャー談。同時に、この世界観で佇む、ひとりぼっちで〈寂しげな村上〉っていうのが、スタッフがリスナーの皆様にお届けしたい彼女のイメージの典型的なまの、かつ理想型なのだとも。


全編で印象的なバイオリンを弾いている早稲田桜子さんは、本来王道クラシックのバイオリンを奏であげる方ですが、この曲に関しては「分かりやすく、行けるところまで行ききって欲しい、昭和フォークの王道のプレイ」という村上のオーダーに100%応えてくれてますね。過去、何度も村上作品でお付き合いしてきた桜子さんならではの「泣きの直球!」なバイオリンのメロが印象的な作品にも仕上がっています。



3.あげます

村上の制作プロジェクトの初期メンバーであったCM音楽プロデューサーの鈴木健士さん、残念ながら志半ばで昨年(2015年)8月に急逝されてしまいました。彼がよく話をしていて、印象に残っていたのが「A&Rという仕事の使命」というもの。すなわち楽曲が次から次へと生まれて、そして残念なことに次から次へと中途半端な消費過程の中で埋もれて行ってという、音楽ビジネスにおける負の悪循環がもたらしてしまう不幸な事象の回避。もっともっと人から注目され、愛されるべき楽曲が、過去のクロニクルの中に山ほどあるはずで、それを再生させて人々にもう一度届け直す事も、音楽ビジネスに携わるスタッフにとっては重要な仕事であろうという。

そんなエピソードもありつつ、村上もスタッフ達も、ライブでもレコーディング作品でも,常にカヴァー楽曲にこだわっています。

あげます

そもそも村上の「歌」を最初にスタッフ達が目に耳にしたのは、YouTube上で観た彼女の中島みゆきさんの『時代』のカヴァーだったそうです。そう、彼女の音楽観の中で、どの曲をカヴァーとして、どういうアレンジで届けるかというのはすごく大事なものの一局面なのです。


彼女が定期的に御茶の水は聖橋で行っている路上ライブでは、中島みゆきやイルカの定番名曲以外にも、BEGIN、SPITZ、花*花、Kiroroなどのポピュラーな楽曲も歌っていますが、レコーディング作品では全体のコンセプトにも重きを置くべき!との判断でしょう、あッと驚く意外なカヴァーに臨んでいます。


この楽曲は、村上がデビューの初陣を切ったレーベル、日本のフォーク・ミュージックの黎明期を創成したと言っても過言ではないベルウッド・レコードの、その最も熱い初期にリリースされた小室等の楽曲のカヴァー(1971年リリース、小室の1stソロ・アルバム『私は月へは行かないだろう』収録)です。


村上もスタッフも、やっぱりベルウッド作品のカヴァーもしたいな、歴史の反芻的な音楽検証もしたいなっていうことから、当時のベルウッド作品を聴きまくっていた時に出逢った曲だそうです。男臭いイメージのあるベルウッド作品の中で、この曲は強烈な煌めきをもって響いてきたそう。あ!!そうだ、この曲があった!!って。村上も一発で好きになった曲です。


オリジナルのバック・トラックである繊細で性急なアコギの3フィンガー・アレンジに対して、彼女は自分なりにピアノの弾き語りで、楽曲に対するおおらかな解釈をしています。


小室の「六文銭」〜ソロに至る中での作品の完成度、そして様々な音楽的/文化的トライアルに対しては、今後も大いなる再評価を求めたいものであります。


現代詩にオリジナルのメロを添えて、それを本来その詩が座するべき場所とは別のステージである、大衆的な側面へのカウンター・カルチャー(当時のフォークはそうであったと思うのです)として再検証を訴求する。まさに日本の音楽史における本質的なサブ・カルチャーの本陣を担うミュージシャンであったと思います。この楽曲の詩(歌詞ではなく)は現代詩の巨匠=谷川俊太郎であり、また小室の他の楽曲、例えば代表曲『雨が空から降れば』では、前衛的な劇作家の別役実の詩に美しいメロを添えて見事な作品として成就させたりもしている。そうした小室の偉業の数々には恐れ入るばかりです。


その小室の名曲に、村上が大胆に挑んでいます。ライブでも、もうここ半年以上にわたって毎回披露されてきた曲、ファンの間でも好評の一曲です。ライブ後に「あの曲って、オリジナルですか〜??」って高校生の女のコが村上に聞いて来たりしてるのを見るにつけ、う〜〜む!そういう部分では「名曲再生工場」としての村上紗由里の面目躍如ですかね。


レコーディング版は聴いて頂ければお分かりの通り、ピアノの弾き語り、一発録りです。こういうアプローチが村上らしいな、と心から思います。拙いながらも熱い説得力が伝わってくる、という。


4.アメザイク

村上楽曲にしばしば散見される、主人公の不思議な立ち位置とアイデンティティー。もちろん基本的には村上と等身大の女性が、その日々や感情を綴ると言う、シンガー・ソング・ライターの王道のスタイルの曲作りがメインの彼女ではありますが。「私」、「あたし」、「僕」という一人称、「あなた」、「君」という二人称という多様なヴァリエーションで語られ、さらにその楽曲の主人公の実際のキャラクターの性別が、実は凄く不安定で微妙.不明という曲が何曲もあったりします。

アメザイク

女のコである自分の主体的表現が「僕」である曲も非常に多い。でも、そうした曲はその主人公表現の「僕」に気付いてしまえば、その後の歌詞の答え合わせは容易だったりしますよね。しかして、村上は時々、この楽曲のように楽曲の世界観に、さらりとドキッとするようなトランスジェンダー的な要素も忍び込ませたりもしてきます。実は、それは村上の楽曲の歌詞、主人公達のキャラクターの内実を紐解く重要な要素であったりもするのですが。


そう、村上楽曲において、そのラヴ・ソング的なものの全てが、驚く程〈性的〉なにおいがしない。もの凄く〈初恋〉的な感性に貫かれた作品が、多くを占めていると思うのです。


この楽曲、最初にデモが届けられたときの仮タイトルは『正しき輪廻』(??ですよね。。。。)だったそうです。う〜〜む、再考。そうなんだ。。。。村上の精神世界、心情を推し量るのに最も適しているテキストは歌詞ではなく、曲の初期的なタイトルだ!と思う事も多いのです。何かを創り出すときの初期衝動が、その最初期に提出されるレポートとしての楽曲タイトルに、最も顕著に現れているミュージシャンだな、と思うのです。すなわちこの楽曲にも、彼女が感じているヒリヒリとした痛みと、現実に突きつけられる「何故??」の感情の転化が強く脈打っているっていうことの証明。これはイタい曲なんですよ!!と言う、彼女の水面下のメッセージが、始めから楽曲の仮タイトルに込められていたのです。結果、タイトルは『アメザイク』となりましたが。。。。 サラリと歌われている性同一障害に戸惑う主人公の男のコの苦悩と悩み、それが村上の透明感のある歌声で届けられた時に、主人公が直面している日々の、その〈残酷さ〉が、より増して心に残る。


歌詞は、『水風船』に続き、自称「赤ペン先生」(笑)の岡本定義(COIL)による微修正がなされ、全体的なストーリーのリアリティと苦悩がより増す結果を得られることとなりました。


村上が何故、こうした特殊な精神世界のテーマを選んで、それを楽曲として完成させたいと望むのか、いつも疑問に感じてしまいます。まぁそれは、それだけ彼女のデモ楽曲が出来る時に、こういう変則的なテーマの作品が多いっていう事でもあるのでしょうね(苦笑)。しかし一方で結果的には、こんなにも異質な痛みと切なさを、ここまで完成度の高いポップ・ソングとしてのメロディーに閉じ込める彼女の感覚にも驚きを隠せません。


彼女の実際の身近にも、この楽曲のストーリー起因となるような友人や知り合いは無いそうです。でもこういうストーリーが彼女の脳内世界で隆々と展開されているという。。。。彼女は実に不思議なミュージシャンであります。


余談ではありますが、岡本のプロジェクト=COILの代表曲『BIRDS』の中で描かれたイビツで致命的な恋愛観は、チョッとこの楽曲の世界観に通じるものがある気がしております。あくまで自分だけの感覚ではあるかと思いますが、ご興味の湧いた方は是非ともCOILの名曲『BIRDS』もご一聴を。リリース当時(1999年)、くるりの岸田繁が我を忘れて絶賛していた一作です。


5.極夜

再三、このアルバムの制作エピソーソに登場する岡本定義(COIL)ですが、この曲は実は、村上と彼との最初のコラボレーション・プロジェクトの課題曲でありました。

極夜

村上から最初にスタッフに届けられたこの曲のデモは、おそらく彼女がバイトをしている渋谷の伝説的ロック喫茶B.Y.Gで録音したものであろう、ピアノの弾き語りヴァージョン。B.Y.Gでオフィシャルのライブが無いとき、もしくはライブがはねた後、彼女は地下のステージをしばしばリハーサルやデモ制作の為に使っています。B.Y,G代表の安本氏や、店長の山口氏から、「昨夜も遅くまでピアノを弾いてたよ」とのコメントもしばしば。良い環境で音楽修行をしてるんですね。


そして届けられたこの曲の最初のデモ、それはピアノの弾き語りのメロに、村上の試し書きの日記のような歌詞がのっているものでした。当初は村上とスタッフの間で仮タイトル「キャロル・キング風」と称され、やがてレコーディングに参加するプレイヤー達からもそう呼ばれるようになっていった曲です。村上のデモのピアノの弾き方に、キャロルの名曲『空が落ちてくる(I Feel The Earth Move)』のようなグルーヴとメロ感があったので。


で、個性的で印象的なメロと、複雑なコード転調を繰り返すこの曲、歌詞を村上と詰めて行くのではなくって、全てを岡本に委ねてみないか?というアイディアがスタッフの中で生まれました。村上もその初めての試みに、「楽しみですね!書いて頂けるんですか、本当に?」っていうモードになったそうです。 そして、次の展開。アーティストとしての活動の側面=作家としての岡本からの最初のリクエストは、村上紗由里というミュージシャンを全く理解していないので、彼女とリラックスしたセッションをしながら徐々に距離を縮めたい、というものでした。


岡本のホーム、横浜近くは綱島のRopeland Studio(今は残念ながら閉鎖。COILの名作の数々はここから誕生しました)で初めてのセッションを行ったのは昨年末、12月中旬の事。村上がピアノで歌、岡本がギターでそれに合わせながら曲構成を模索するっていう、理想的なセッションが実施されました。この楽曲、途中ではキャロル・キングから遠く離れ、岡本の音楽的フェイヴァリットの土壌であるUKポップ寄り、極端に言うとデヴィッド・ボウイの初期フォーキーな感じ(その頃、村上は最近ハマっているアナログLP探索で、ボウイの『スペース・オデティ』を購入していたっていうのは本当に偶然ですね)にどんどん寄って行ったと言います。さらには、セッションのピークでは、この曲のコード転調感がポール・ウェラーっぽいぞ!なんて曲/アレンジ構成の瞬間もあったりしたそう。ちょっとそのラフなセッション・デモを聴いてみたい気もします。。。。


結果、岡本から後日届いたメッセージ、村上の音楽観に非常に興味を持った!という事と、当日セッションした楽曲の構成アイディアと歌詞のプラン。「昭和のコンセプトなんでしょ?で、村上チャンのイメージと。自分はシンガーそのままのイメージっていうよりも、それを裏切る感じ、こういうのもあるよ!彼女のこんな側面は如何ですか?っていうのを提案したいな。それはありですか?」って。本人/スタッフ一同、もちろん、ありです!と応えました。元ちとせへの楽曲提供など、岡本のイメージ解釈には、皆、絶対的な信頼を置いていたので、村上にどんな歌詞を書いてくれるのかなって、本人共々楽しみにしてたそうです。で、この『極夜』です。タイトルも「!?!?」ですが、歌詞も今までの村上の楽曲世界観から絶妙に逸脱している。「昭和歌謡、山口百恵×中森明菜みたいな、ちょっと斜に構えたハスッぱな世界観を敢えて書いてみたんだけれど。。。。」っていう岡本の提案は、村上始め、スタッフ一同大歓迎でした。


実は、レコーディングの歌入れでは相当手こずった一曲でもあるそう。色んな意味で初のトライアルがあったので。で、村上も歌のときは、中森明菜から始まって、桜田淳子(松田聖子的でもある)になって、最期には神田沙也加でしめて行くっていう、スタッフの提案したちょっとパラノイアックでイッちゃってるくらいの危ない感じの歌唱!っていうテーマを、悩みながらも、でも凄く楽しんで、立ち向かっていました。


今作中、最も異色の一曲。でありながら、今後の村上の向かうフィールドの多様性を予感させる大事なステップ・ストーンとしての一曲。アルバムのアレンジの多くを手がけている村上バンドのバンマス、B.Y.Gのバイト先輩(笑)でもある山本隆太と村上が練ったプラン、「60〜70年代の洋楽、ブルーズやジャズに憧れて腕を磨いていた日本人セッション・マン達が、歌謡曲のバックを務めてくれというオーダーをもらった時に考えたアプローチ」が反映されたアレンジに仕上がっているな、と。。。。彼によるピアノとオルガンのグルーヴィーなノリがゴキゲンな一曲でもありますね。


6.風を待つカーテン

M−3『あげます』と、このミニ・アルバム中では双璧を成す重要なカヴァー曲でこのミニ・アルバムの最後は閉められます。この後に続くボーナス・トラックは本当に、ボーナス(笑)。作品全編のコンセプトとは別のプレゼントとして聴いて楽しむのが正しいでしょう。

極夜

村上の〈歌の解釈/咀嚼力〉、それは彼女がレコーディングした作品中でも、ライブのパフォーマンスの中でも、カヴァーしている数々の楽曲を通して、しっかりと受け止めたい重要なポイントだと思います。自らのオリジナル楽曲の中でも〈女優〉体質で歌を表現する事がある彼女ですが、カヴァー曲では根本的に別次元のパフォーマンスが当然ながら望まれており、それに臨んでいると思います。


『風を待つカーテン』は、自らのソロはもちろん、バンド=AL(アル)の中心メンバーとしても活動する天才的なシンガー・ソング・ライター=長澤知之の2007年リリースのミニ・アルバム『P.S.S.O.S』に収録されていた名曲。彼のファンの間でも、永遠の一曲として愛されている楽曲です。長澤は近年のソロ活動でも、実はこの楽曲を歌う事が少なく、そしてALの活動に入ってはそもそも長澤のソロ・ワークスが披露される事も無く、このまま行くとこの世紀の名曲が世の中に伝わって行くことが無くなってしまうのでは!?という危機感さえも、彼の一ファンでもある自分の中では懸念されていたっていう近況でもありました。ですので、村上がこの曲をカヴァーするに至ったということは本当に嬉しい限り。


〈村上名曲再生工場〉は、この楽曲に果敢に挑みました。自分としてもこの大好きで大切な一曲を歌い、引き継ぎ、後世に伝えるシンガーの一人として村上は相応しい!と確信があったので。そして、長澤自身にもこのカヴァー案件に関しては快諾を頂いたのこと。実はこの原稿を書いている時点では、まだ彼がこのトラックを聴いての感想を聞けていないのが残念。絶対に気に入るんじゃないかなぁ。。。。


この曲をカヴァーするにあたって、原曲を100%正しく愛し、理解している、オフィスオーガスタ(村上の所属事務所ですね)代表、音楽プロデューサーの森川欣信氏は、彼女のライブで一度、この楽曲のパフォーマンスを観たことがあるそうです。その時の彼の感想。「お前(マネージャーに)が凄く良いって言うから期待して観ていたのに、ちっとも泣けなかったぞ!」と。。。。う〜〜ん。。。。そのエピソードを聞いて、自分も相当悩みました。森川氏の楽曲に対する反応/感覚にはスタッフ一同、私も全幅の信頼を置いているので。〈泣ける〉っていう感覚、自分もとても大切にしている、楽曲に臨むときのその感覚の本質っていったい何なんだろう?って。そもそも、自分は村上のこのカヴァーで、ライブでは何度も〈泣けて〉いるのに、どうしてそれがイコールで彼には伝わらなかったんだろう?って。

原点に戻り、考えました。何故、自分がこの曲を歌う村上に感動するんだろう??何故、その同じ感動が人に伝わらない事があるんだろう??う〜〜ん、シンプルだけれど深い悩みでした。


結果は、正しいかどうか解りませんが、以下のものとして自分には導かれました。村上が歌うカヴァー曲の解釈は、その楽曲が本来、そこで輝くべき意味、機能して人々を癒すべき意味、それらの本質を解題して、正しく伝え直すというものだということに。すなわち、〈泣ける〉ことへの期待を再現するのではなく、村上は楽曲が本来持っている、その楽曲が辿り着くべき場所、奉納されるべき場所を体感して、伝える為に歌っているのだと。


私見で恐縮ではありますが、長澤は元来、この『風を待つカーテン』を、人を泣かせる為に書いたとは思えません。彼自身の〈魂〉の救済のため、彼自身の〈アイデンティティの確認〉の為に書いた、力強い一曲であったはずだと思うのです。でも、彼の歌声、彼のアーティストとしての佇まい、それらがこの『風を待つカーテン』を傷だらけの美しい一曲というポジションに、勝手にファンが祭り上げてしまったのではないか?と。本来、この曲が納まるべき場所、曲として魂が鎮座される場所は、今回村上がカヴァーした、晴朗な、未来への希望に満ち溢れているところ、このカヴァー楽曲のテイストのような世界観ではなかったのではないだろうか?と。そして長澤自身のこの曲の制作意図も、本来そこにあったのではないか?と。。。。


だから、〈泣ける〉ことの感覚の本質が、村上が「あっけらかん」と体現したものと、同時に自分が勝手に抱いていたものと、例えば前出のプロデューサー=森川氏のものとは、そもそも異なっていたのかもしれないのです。「救済の象徴」、「傷みの本質」、どちらも楽曲の重要なテーマ、創作モチベーションの因子には違いないのですが、座している場所は対極にあります。楽曲の制作に向かい合う時、自分はリスナーとして、その双方の因子を理解できると思っているのですが、逆に今回はその自分の感覚の守備範囲の広さ(散漫さともいえます。。。。)が、村上のカヴァー曲の魅力の本質の応えを導く事の障害になっていたのかもしれません。


村上は、長澤のこの圧倒的に美しい名曲に、楽曲が本来鎮められ、清められるべき場所で、永遠の息吹を吹き込んだのだと信じています。ピアノ弾き語りの一発録りの辿々しくも瑞々しい説得力、それ故に重要なものとして、このミニ・アルバムを締めくくる作品として印象的で感動的なものとして輝いています。 これは、奇跡のカヴァーだと自分は信じています。


文:某野悦二(音楽ライター/クリエイター)   挿絵:村上紗由里